題名 :『河内山宗俊』

登録日時 :03/09/15 20:19

1936年 日活/太秦發聲 監督:山中貞雄 モノクロ 81分

『人情紙風船』に続き、これもまた山中貞雄作品。 そしてこれもまたロールシャッハ・テストの様な映画。 明るい活劇と評する一般的評価に対し、個人的には全体に暗い映画だと思う。

ひとりで甘酒屋を切り盛りする美少女、お浪(原節子)が危機に陥った! 何があってもこのけなげな美少女を救わなくてはならぬ。やくざと対立するなまぐさ坊主の河内山宗俊(河原崎長十郎)とやくざの用心棒、金子(中村翫右衛門)が、使命感に燃えて立ち上がり、立場を超えて協力する。 金子のアイデアで宗俊が高僧に扮して詐欺を働き、お浪の借金300両を工面した。しかし宗俊の妻、お静(山岸しづ江)の裏切りにより、お浪は品川の女郎屋に売られてしまった。しかもお浪の弟、広太郎(市川扇升)がやくざの親分(坂東調右衛門)を殺してしまったため、やくざ達が押し寄せてきた。 お静が死に、金子が死んだ。宗俊もやくざたちを堰き止めて、仁王立ちで死んだ。 300両を託された広太郎は品川へひた走る。(終)

テクニカルな話題だが、この映画では人間関係があるパターンを徹底して描写される。例えばA,B,Cと三人の人物がいるとして、AとBのダイアログ・シーンの時、BとCがどういう関係にあるのかAは知らないし、AとCの関係もBにはわからない。 その後、AとCのダイアログではBのことが、BとCのダイアログではAのことが同様な状況となる。 そして人間は知らないこともあるし、誤解していることもある。嘘も言うし、邪推もする。知りながらとぼけることもある。こういったダイアログの不完全性にAもBもCも気付いていない。けれどもそれが人物の思考や行動を律する結果、人間関係は極めて複雑な模様を描き始める。 しかし悲劇にせよ、喜劇にせよ、人間間のドラマはいつもこういうところから始まるものだし、ひいてはわれわれの社会というのは、こうした不完全性をはらみながら危うく成立しているものなのかもしれない。

こういう技法を用いて、人間の関係性のパターンを網羅しながら、この映画はドラマを築こうとしている。 そして全ての会話を目撃している観客だけが、内実の全容を把握し、すべてを知った言わば「神の目」を持ってドラマを眺めることになる。こういうアイデアはなかなか実験的で斬新だと思うし、結構面白い。しかしそれが成功しているとは言いがたい。「なぜ、あのことを打ち明けないんだ?」とか、「どうしてもっと突っ込んで訊かないんだ?」とか、観客にはフラストレーションが次第に溜まってくるのだ。

そして最後まで不愉快で好きになれない人物が、三人もいた。
ひとりはマドンナの弟。 泥棒、心中未遂、殺人と犯罪行為をエスカレートさせながら、全く反省する様子がない。自分の行動がどういう結果をもたらすか想像できないバカ。フィクションの中の人物なのに、私は込み上がる怒りが抑えきれなかった。
二人目は宗俊の女房。 亭主がお浪と浮気していると思い込み、毒々しい皮肉を言って、お浪を泣かせてしまう。許さーん!絶対に許さーん!お浪はあんたのような年増女とは違うのだ!あんたがウン十年前に失ってしまった汚れない魂を持っているのだ!だからこそあんたの亭主も必死にこの娘を守ろうとしているのに、なぜそれがわからんのだ?!とイライラ爆発。しかもお浪を女衒に売り払ってしまう。全くひどい女だ。
三人目はその女衒(加東大介) 口は流暢だが、心がひねくれている。悪意にまみれた無責任な噂話で周りを混乱させ、それを楽しんでいる。ほんとヤな奴!そのくせ自分のこととなると必死になり、人情も義理もないまことに自己本位で卑劣な男。うんざりする。

もちろん、これもまたロールシャッハ・テスト。おそらく私は、社会正義とか誠実な人間関係とかいう理想を、映画に対して求めすぎなのだろう。「人間なんてこんなもんよ」と納得してしまう人も多勢いるかもしれない。しかし、これに納得するならば、やはりこの映画は救いようもなく暗い映画、と言えるのではないか。
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