題名 :「真剣勝負」

登録日時 :00/02/21 01:38



タイトルからは想像つかないでしょうが、1971年東宝のこの映画、実は宮本武蔵ものなんですね。

出演陣は基本的に4人だけ

中村錦之助(宮本武蔵)
三国連太郎(宍戸梅軒)
沖山秀子(梅軒の妻)
子役  (梅軒夫婦の子供:推定1歳)

登場人物が少ない上に場所もあまり移動しないので、密室心理劇っぽくなっており、「性格俳優」三国連太郎の好演もあって、なかなか見せます。

あらすじは簡単。
武蔵は「鎖鎌」なる武術がどんなものか知りたくて、宍戸梅軒を訪ねる。実は梅軒の妻は、武蔵に殺された辻風典馬の妹であり、梅軒夫妻にとって武蔵は義兄・兄の敵だった。関ケ原の思い出話からそのことに気付いた梅軒は、明け方武蔵を不意打ちしたが失敗。手下の「八人衆」まで失ってしまう。怒り心頭に達した梅軒とその妻(こちらも鎖鎌は達人級)の「夫婦鎖鎌」に追い詰められた武蔵は、夫妻の子供を人質に取るという極悪非道の作戦に出る。作戦が奏効し、夫妻を分裂させ、武蔵はどうにか梅軒に手傷を負わせることができた。鎖鎌を取り落とし、いずこかへ姿を消す梅軒。子供を母親に返す武蔵。そこに決死の覚悟を決めた梅軒が、太刀を背に最後の決戦に戻ってきた。梅軒の様子に「このままでは負ける」と感じた武蔵は、わざと梅軒に鎖鎌を取らせる。鎖鎌を手にする梅軒に対し、2本の刀を抜いて構える武蔵。

という内容です。



錦之助=武蔵の策士ぶり、三国連太郎の達者な芝居も見事ですが、敢えて挙げたいのが沖山秀子の存在感。キツネかなんかの毛皮を腰に巻いた、色気のない体育会系から始まって、妻、女、母と次第に深みが出てきます。「母乳搾り」のシーンは、私はそういうマニアではないので、唖然としてしまいましたが。

監督は内田吐夢、脚本は伊藤大輔でした。

序盤で武蔵は「剣は道」と言い、その「道」を極めること以外に何の望みもない、と語ります。一方、梅軒は直ちにそれを否定し、剣は「技」だと言います。「技」とはつまり、「いかに人を上手く殺すか」ということであり、その「技」を使って何を目指すか、が大事なのだと。
ここでは、武蔵は敢えて反論しませんが、ある意味この映画はこの2つの価値観の戦い、それこそが「真剣勝負」だと見るべきなのかもしれません。終盤のクライマックスでは、武蔵は剣は「人を殺すことも、生かすこともできる」と新境地を独白いたします。いわゆる「活人剣」開眼の瞬間です。

「剣は技だ」と言い切った梅軒が、子供を人質に取られて見苦しくみじめに武蔵に翻弄されます。しかし「剣は道」と信じる武蔵は、最後までまったく揺らぐことなく、「道」を求めて新境地に至っていきます。

実は内田監督は、完全無欠の武蔵に武人のひとつの理想の姿を見ながらも、武蔵に翻弄されて色々と思い悩み、格好悪くあがいてあわてふためく梅軒のほうに思い入れがあるのではないか、と私は思いました。武蔵が無欠の「サイボーグ」としたら、梅軒こそが「人間」なのだよ、と。

梅軒の妻もしかり。「人間」でした。最後には「死んだ兄よりも生きてる子供の方が大事」と泣きながら言います。
その言葉に「おなごとは、そういうものかあ〜!」と、顔を歪ませて絶叫する梅軒。そのとき突然梅軒の背後に炎が立ちあがるサイケなシーンは、内田監督の真骨頂というか、いかにも「らしい」演出だと私は思いました。

あと内田監督らしいと思ったのが、動いている人物が突然静止画像になり、そこでその人物の心の内が語られるいくつかのシーン。使いすぎたら安っぽいけど、なかなかいいタイミングでいい台詞を言ってたと思います。そういう意味ではスタイリッシュ。

というわけで、私はこの映画はやっぱり内田監督らしい、と思っています。最終決着シーンがないのはなぜかというと、内田監督は実は梅軒に勝って欲しかったのですが、史実は武蔵が勝ったので、あえてカットしてしまったのではないか、と解釈してます。だって人間として魅力があるのは、絶対梅軒のほうですもんね。

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