題名 :『宮本武蔵 一乗寺の決斗』

登録日時 :01/02/18 00:45


内田吐夢監督・中村錦之助主演の宮本武蔵シリーズの中の一本。東映1964年。

このシリーズの場合、吉川英治の原作を追いかけて、なんだか連続ドラマっぽくなっている。つまりシリーズ4作目にあたる「一乗寺の決斗」を見る人は、前回までの3作を見ている、ということが、前提になっている。さもないと、映画中の人間関係がよくわからない。そういう観客のために、映画の冒頭5分では前回までのあらすじが、紙芝居のように紹介される。これでよくわかった、というまでにはいたらないが、この作品に限っていえば、この程度で十分かもしれない。なぜかというと、ドラマ中に前回までの人間関係の引き摺りがほとんどないし、この作品自体、ストーリーが非常にシンプルだからである。



そのシンプルなストーリーは2〜3行で書くことができる。
京の名門、吉岡道場の当主、吉岡清十郎を破った武蔵に清十郎の弟伝七郎が挑んできたが、武蔵は一蹴。さらに吉岡一門総勢70数名を一人で相手にした武蔵は、相手の名目人(子供)を不意打ちで討って勝利を収めた。以上。



この作品が名作といわれる所以は、クライマックスの70数名対1人の戦闘シーンにあることは間違いない。一乗寺の下り松を背に陣を張る吉岡一門。その陣形を松の後方の藪に身を潜めて、入念にチェックする武蔵。このあたりは夜明け前で画面はモノクロ調。そこから一気に武蔵が不意打ちを仕掛け、名目人を討ち、すんごい長回しで追っ手を倒しながら田んぼの畦道を逃走経路にして逃げ、最後は田んぼの中で泥だらけになり、逃げ切ったところで大の字になって放心する。その場所は真っ赤な羊歯が生え茂り、サイケな色調。

内田吐夢の真骨頂であるケレン味が錦之助の迫真の演技と相呼応した、出色のシーンであり、このシーンだけでもこの映画を見る価値はある。

その上で、このシーン以外の部分にも言及したいのだが、実はあまりよくないと思う。個々のエピソードはなかなかよいのだが、それらのつながりが今一つ淡白で、クライマックスに向かって収束していくような方向性が感じられない。

例えば、吉野太夫(岩崎加根子)が琵琶の横木に例えて武蔵の緩みのなさを鋭く指摘するシーン。太夫が首だけ白くて顔が猿のように赤いのはさておいて、なかなかいいシーンではある。しかし、武蔵がこの太夫の言葉でどんな変化を遂げたのか、その変化が以後の行動にどう影響したのか、さっぱりわからない。つまりこのシーンは、物語の流れとして完全に浮いてしまっている。

おなじみのレギュラー陣も登場するが、いずれも登場シーンは非常に短い。朱美(丘さとみ)と又八(木村功)の登場は1回のみ。お杉(浪花千栄子)は2回。いずれも非常に短い。要するにレギュラーだから、一応顔を出しました、という程度で、映画のストーリーにはほとんど無関係。なにせ、武蔵と一度も顔を会わさないんだから。お甲(木暮実千代)なんて冒頭の紙芝居にしか登場しない。

レギュラーでそれなりに物語にからんだのは城太郎(竹内満:子役)とお通(入江若葉)の二人だけ。特にお通は『般若坂の決斗』で武蔵に捨てられるところを私は目撃したので、この作品で武蔵にヒシと固く抱きしめられるシーンを見て、「よかったなあ、本当によかったなあ、お通さん...」と思わず涙目になってしまった。しかし冷静に考えれば、ひどく突然の登場だった。

突然の登場といえば佐々木小次郎(高倉健)。登場シーンではなぜ、この男がこの場所に現れるのか、常に疑問なのだが、あのチンドン屋みたいな衣装を高倉健がなぜ着ているのか、という疑問の方が強烈なので、突っ込むのを忘れてしまう。
ストーカーみたいな林(河原崎長一郎)も、登場の必然性が疑問。結局あんたは何を言いたいのさ?という観客の気持ちを代弁して、武蔵がそのとおりのことを言ってくれたのは嬉しかった。
要するに決斗シーンまでは、結構ダルダルで落ち着きがよくないのだが、決斗シーンから全てが引き締まって、完璧に収束していく、という不思議な構成になっている。

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